長光寺の歴史
曹洞宗長光寺は山号を玉寶山(ぎょくほうさん)と称し、甲州武田家の遺臣(法名 直心軒祖道円成居士)により、天正10年(1582年)の織田信長との合戦によって滅亡した武田家の菩提を弔うために、文禄3年(1594年)に建立されました。
本尊は釈迦如来、開山は得州全可大和尚とされていますが、実際の開山は二世の海翁寒刹大和尚です。寺の開山を自分の功績にせず、師匠に譲った勝蹟によります。
以後、何度か災禍に遭い建物は消失しながらも400年連綿としてつづき、平成13年、近代建築にて復興され、今日に至ります。
「文政寺社書上」(国立国会図書館デジタル化資料 - 寺社書上. [47] 大久保柏木千駄ヶ谷寺社書上全,P3)より
薬師如来(新宿しあわせ薬師)
江戸時代、現在の歌舞伎町に大名屋敷を構えた久世三四郎は、幕府鉄砲組百人隊の頭を拝し、与力同心の屋敷を建てて百人町を開きました。
ある夜、久世家に古くより伝わっていた弘法大師作の薬師如来が枕辺に顕れ、 「ぜひ一宇を建てて前の長光寺の寺域に移してほしい。そうすれば我はその地に永くとどまりて衆生に幸福を授くべし。」 と告げられました。 この霊夢ののち、薬師堂が建てられ近郊の善男善女が参拝し祈願するようになりました。
明治、大正時代には屋台もでて多くのお参りがありましたが、先の大戦でお堂は焼失。かろうじて疎開してあった尊像は、本堂建設に併せて薬師堂「新宿しあわせ薬師」を信者の喜捨で建立し、現在でも昼夜にわたりお参りが絶えません。
鉄砲組百人隊
天文12年(1543年)、種子島においてわが国に鉄砲が伝来したことは有名です。
以後、各地の戦いに使われるようになり、江戸に幕府を開いた徳川家康は江戸城の近くに駐屯させ、この将軍警護のための鉄砲隊を「百人組」といいました。その宿営地が百人町という名の由来になっています。 鉄砲組百人隊の子孫は現在でも長光寺の檀信徒として、祖霊の地を守っています。
また、昭和36年(1961年)、江戸幕府鉄砲組百人隊保存会により、江戸時代に行われていた「鉄砲組百人隊出陣の儀」が復活し、以来、隔年9月に開催される皆中稲荷神社の例大祭にあわせて執り行われています。
出陣の儀を終え皆中稲荷神社を出発した鉄砲組百人隊の行列は、法螺貝の音とともに百人町を練り歩き、数箇所で実際に火薬を使い火縄銃の試射を行います。すさまじい轟音が辺りに響き渡る迫力満点のこの行事は、現在新宿区無形民俗文化財に登録されています。 長光寺に到着した行列は、鉄砲組百人隊の祖霊に黙祷を捧げた後、長光寺敷地内にて火縄銃の試射を行います。
※2013年より、警察署の指導により、公道に近いということから長光寺敷地内での試射は行われなくなり、型の披露のみとなってしまいました。
島崎藤村ゆかりのお寺
島崎藤村が小諸から再び東京に出てきて、西大久保に住んだのは明治38年5月1日からでした。長光寺檀家である坂本家の敷地内の借家に居をかまえて本格的な執筆活動に入るためです。
上京した藤村は武蔵野の面影の残る、檪木立ちの多いこの地域が気に入っていたようです。 一家妻子4人と共に移ったときは、新築のためまだ壁土も乾いていなかったといいます。その借家は通りに向かって玄関があり4間からの平屋で、奥の6畳が藤村の書斎でした。
34歳の藤村は日夜文学の鬼となって『破戒』のペンを執り続け、一家の生活の悲惨を省みる暇がありませんでした。大家の坂本家では、藤村の子供が病気がちで、生活も苦しい様子なので、漬物を分けてあげたり、その他いろいろと食べ物の世話をしたようです。
間も無く藤村を悲運が見舞います。5月6日に三女縫を急性髄膜炎で、翌年4月7日に二女孝を急性消化不良で、6月12日に長女緑を結核性脳膜炎で相次いで失いました。その後、浅草に転居してからも妻の冬が脚気で死去。いずれも大家の坂本家の好意によって長光寺に葬られました。
長光寺だより
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